人生二回目説、アポトキシン4869で幼児化した説がある芦田愛菜ちゃんですが、映画「岬のマヨイガ」完成披露試写会でのコメントもすごかったので、その内容をご紹介し、分析してみたいと思います。
目次
芦田愛菜 試写会コメント全文
映画の主題に絡む質問で司会者から「芦田さんは人生で迷った時、どうされていますか?」と問われ、以下のようにコメントしました。
でも、私はまだ人生で大きく悩んだことがないので、小さなことになってしまうんですけど、
なんかこう、やっぱり悩んだときとかは、まずは自分の中で、こう、考えて、考え抜(いて)分からないなりにも考えて、一番、自分が納得して行動でき、る、答え、みたいなものを探して、
で、その行動を起こしたあとは、もう、なんだろう、結果はもう決まっているんだから、あとはなるようになるしかならない、て思うようにしているというか、
なんかこう、自分に人生の最終決定権があると思ってしまうと、なんかこう自分を、上手くいかなかったときに自分を、責めてしまって辛くなったりすることも、後悔することもあると思うので、
なんか、何て言うんですかね、まあ、結果は決まってて、自分はそこに行くための方法を選んだだけなんだって、なんか思えれば、ちょっと納得できるかななんて思ったりします。
なかなか難しくて、結局後悔しちゃうんですけど、でも心がけています。
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コメント分析
「なんかこう」とかまで書いてあって読みにくいと思われた方もいると思いますが、そこにこそ私が驚いたポイントがあるので、あえてそのまま引用記載しています。
というのも、コメントの中身も素晴らしいのですが、言葉の選び方、思考力がすごいと感じたので、それをお伝えしたかったのでそのままにしました。
「人生で迷った時、どうしているのか」という質問自体、なかなかコメントが難しいと思いますが、それをその場で初めて問いかけられて、自分の考えを整理し、それを相手に理解してもらえるようコメントするというのは、実はものすごく高度な思考力が求められると思います。
これをサラッとやってのけている愛菜ちゃんには脱帽です。
以下、私が注目したコメントの細部をご紹介します。
なんかこう、やっぱり悩んだときとかは、まずは自分の中で、こう、考えて、考え抜(いて)分からないなりにも考えて
「考え抜いて」と言おうとして、途中で言葉を飲み込み、「分からないなりにも考えて」と言い直しています。
これはおそらく、熟考しているときの自分を表現する言葉として「考え抜く」という語彙が頭に最初に浮かんだものの、「考え抜く」には「答えを出す」という意味合いも含まれてしまうと考えて思いなおし、安易に「考え抜く」という語彙を使わずに、「分からないなりにも考えて」と言い直したと思われます。
さらに続いて以下のコメント
一番、自分が納得して行動でき、る、答え、みたいなものを探して、
ここでも「行動できる」と言い切ってしまっていいのかを一瞬考えた結果、「る」と言い切る判断をしています。
いきなり問われた質問に対して、自分の考えを整理し、かつ、相手が理解しやすい言葉を選んで口にしようとしていることがわかります。
これらはちょっとしたことですけど一朝一夕で身につくものではなく、おそらく普段から、自分の考えを正確に理解してもらうための言葉選びを丁寧に行っている証拠ですね。
そして、最後のコメントも注目。
で、その行動を起こしたあとは、もう、なんだろう、結果はもう決まっているんだから、あとはなるようになるしかまらない、て思うようにしているというか、
なんかこう、自分に人生の最終決定権があると思ってしまうと、なんかこう自分を、上手くいかなかったときに自分を、責めてしまって辛くなったりすることも、後悔することもあると思うので、
なんか、何て言うんですかね、まあ、結果は決まってて、自分はそこに行くための方法を選んだだけなんだって、なんか思えれば、ちょっと納得できるかななんて思ったりします。
ここには、愛菜ちゃんが、自分の人生をできる限り客観的にとらえ、自分自身と向き合うということに取り組まれてきたのだということが読み取れます。
メディアでは「達観したコメント」という風に紹介されていましたが、達観しているというよりも、自分という人間を相手に理解してもらうにはどうすればいいのか、相手を正しく理解するにはどうすればいいのかという、コミュニケーション力を高めようという努力をし続けている結果がコメントに表れているんじゃないのかなと思いました。
私自身、コミュニケーション力については本当に低くて苦労しているので、愛菜ちゃんのコメントから少しヒントを学ばせてもらった気がします。